Italia 「僕とイタリアという国」

Pasto 「イタリアでの食事」

イタリアに留学中は一人暮らしをしていたので、食事は基本自炊していました。
ただ僕は料理が苦手で、日本で一人暮らしをしている時も、レトルトの物や出来合いの物を買ってきたり、外食をしたり、作ったとしてもご飯に合う、絶対に失敗しない超簡単な物だったので、イタリアでもそんな感じになってしまうのかなと思っていましたが、そうでもありませんでした。
そうならなかった一番の理由がイタリアのトマトの美味しさでした。
特にイタリアの完熟トマトは日本では食べた事のない美味しさでビックリしました。
料理下手な僕の調理で美味しいと感じる位ですから、素材が素晴らしいという他はありません。
ペンネやスパゲッティー、麦のリゾット等、トマトを使った料理を毎日自分で作って食べていました。
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(僕が作った麦のリゾットです。作り方も材料も忘れてしまったので今は作れませんが、トマトのお蔭でとにかく美味でした)

加えてイタリアの食事で感動したことがもう一つあります。
僕はイタリアに留学する前からピザが大好きで日本でも良く食べていたのですが、本場のピザはやっぱり凄いです。
ピッツェリア(主にピザを提供するイタリア料理店)で食べるピザが美味しい事はもちろんなのですが、イタリアのスーパーで売られているピザのレベルが相当高く、初めて食べた時はビックリしました。
それはやはり素材の良さの成せる技なのかなとも思いますが、スーパーで売られているピザがこのレベルなのですから、この国のピザはレベルが高いわけだと関心させられました。
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 (イタリアのスーパーで売られている「マルゲリータピッツァ」。初めて食べた時はレベルの高さにビックリしました)  

素材の素晴らしさに助けられて、自分で作った料理で十分満足していましたが、フィレンツェの語学学校時代に出会った日本人の夫妻(ヨシさんと奥様)にピストイアで会い、料理を作ってもらった時に「やっぱりプロってすごいな~」と思いました。
ヨシさんと奥様は日本でイタリア料理店で働いていて、当時フィレンツェに語学留学と同時にトスカーナの伝統的な料理を学ぶ為に短期留学に来ていました。
同じころに同じフィレンツェの語学学校に入学し意気投合、一人でイタリアに来ていた僕の面倒も見ていただき、色々助けてもらいました。
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(フィレンツェの語学学校で知り合ったイタリアンシェフのヨシさんと奥様。中央広場にある奇妙な銅像と同じ格好で写真撮影)

僕がピストイアに移り住んで暫くたった頃、2人が留学を終え日本に帰国する事になったので、ピストイアに会いに来てくれました。
その時に僕の家に来てくださり、料理を作っていただいたのですが、うちにあった物だけを使って、とっても美味しいパスタを作ってくれました。
やっぱり素材が素晴らしい事に加えて、腕も良ければもっと美味しくなるんだなと脱帽しました。

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     (ヨシさんが僕の家にある材料で作ってくれたペンネ。やっぱりプロは凄いなぁと思った一品でした)

日本に帰ってきてからもイタリア料理好きは変わっていません。
今、周りに美味しいイタリア料理のお店が沢山ありますが、あのトマトの味はやっぱり現地でないと味わえないのかなと思います。
あのトマトの味を味わう為だけでも再びイタリアに行く価値があると思っています。

2012年8月27日 倉田文裕

Milano 「ミラノにて」

イタリアへの留学中、一度だけミラノへ小旅行に行きました。
目的はミラノへ留学中の知り合いに会う事と世界有数のサッカースタジアムであるスタディオ・ジュゼッペ・メアッツァ (Stadio Giuseppe Meazza)通称「サンシーロ」(San Siro)を見る為で、ミラノの街とサンシーロをその知り合いに案内してもらいました。

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  (ミラノを本拠地とするサッカーチーム「ACミラン」と「インテル・ミラノ」のホームスタジアム「サンシーロ」と僕)

ミラノの街は流石イタリアの大都市という感じで、フィレンツェよりも洗練された街と言う印象を受けました。
そして世界有数のファッションの街でもあるので、超有名ファッションブランドのお店が立ち並び、家具や小物、カフェ、レストランまでお洒落な「衣・食・住」のお店で溢れていました。
小・中とサッカーをやっていて高校でも部活こそ硬式テニス部でしたが、友達の作った社会人サッカーチームで偶にサッカーをしていたサッカー好きの僕にとってはイタリアのサッカーというのは小学生の時から憧れであり、特に「イタリアの至宝」と言われたロベルト・バッジョ選手に関してはサッカーをやっていた頃も、サッカーをやめて他のスポーツをやっている今でも僕の憧れの選手であり続けています。

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     (憧れのロベルト・バッジョ選手のサイン入りユニフォーム。イタリア代表の時に実際に使用したもの)

そのロベルト・バッジョ選手も在籍していた、ミラノを本拠地とするチーム「ACミラン」と「インテル・ミラノ」のホームスタジアムである「サンシーロ」に行く事も夢の一つだったので、観客席からピッチを見て、選手が実際に使っているロッカールームやマッサージルームをこの目で見れた時には本当に感動しました。
またスタジアムに併設された博物館では名選手の実際に使用したシューズやユニフォームが飾られていて、「ACミラン」「インテル・ミラノ」に在籍した歴史的名選手のリアルな蝋人形も並んでいました。

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       (ACミランの黄金期を支えたオランダ人カルテットの一人ルート・フリット氏。オランダの英雄)

展示物の中には中田英寿選手や小野伸二選手のサイン入りユニフォームもあり、日本人として嬉しく思いました。
今や日本のサッカー選手が海外に出て活躍するのが当たり前の時代になりましたが、サンシーロのスタジアムに蝋人形が飾られる位の日本人ジョカトーレ(サッカー選手)が出現し、バロンドール(ヨーロッパ最優秀選手賞)獲得という夢を見せてくれる事を期待したいと思います。

2012年8月23日 倉田文裕

Pistoia 「ピストイアにて」

一年間のイタリア留学で、初めの3ヵ月は日本人にもお馴染みの街「フィレンツェ」で、残りの9ヵ月は同じトスカーナ州にある「ピストイア」という田舎町で過ごしました。
ピストイアという町に来た目的は「服の仕立て」を学ぶ為で、その専門学校に通うためにフィレンツェからこの町に移り住みました。
専門学校と言っても、日本で言ったら「塾」みたいな規模の学校で、普通の住宅の一室を使って授業を行っていたので、最初その学校自体を探すのに相当苦労しました。
当然の事ながら授業は全てイタリア語で行われるので、僕は授業が終わってからも、家で専門用語などを辞書で調べて、その日の授業をノートにまとめる作業を行っていました。
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(フィレンツェからピストイアへの引っ越しの日、イタリアでは定番のストライキが起き、電車がストップし、足止めを食らいました)

ピストイアでは中心部から少し離れた郊外に部屋を借りて一人暮らしをしていたので、自転車屋で中古のマウンテンバイクを買って、学校と自宅を行き来する生活を送っていました。
買った時点で既にタイヤはすり減り、ブレーキの利きも悪い「ダサ・ボロ自転車」だったのですが、9ヵ月も乗っていると次第に愛着が湧いてきて、帰国の準備をしている時に、「お金がかかるけれど日本に持って帰ろうかな」と思ったほどでした。
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        (住まいから学校まで少し距離があったので自転車屋で安い中古のMTBを買いました。
         アドベンチャーレースでは絶対に使えないオンボロ自転車ですがお世話になりました)


住まいは学校からもスーパーからも距離があって不便な面は多々ありましたが、部屋は広い寝室に広いリビング、キッチンもトイレもシャワールームも綺麗で、一人で住むには贅沢な位快適でした。
ただ、そこの大家さんが飼っている犬が巨大で、デカい犬が苦手な僕はその点だけが不快でした。
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       (イタリア版「犬に注意」の看板です。何となくお洒落な感じがして写真を撮ってしまいました)

毎年、大晦日と新年は家族と一緒に過ごすのが恒例となっていましたが、イタリアではクリスマスほど新年を重要視しないため、僕も大晦日の日、そばを食べる事もせず、いつも通りの時間に寝てしまいました。
ただ、何故かいつもよりも早い時間に目が覚めてしまって、折角なら初日の出を見ようと起きたところ、朝焼けに染まった美しい景色を見る事が出来、「今年は良いことがありそう」と勝手に思っていたことを思い出します。
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           (ピストイアで迎えた新年、初日の出。朝焼けに染まった空がとても綺麗でした)

僕に仕立てのノウハウを教えてくれた2人の先生、狭い教室で共に学んだ友達、いつも良くしてくれた大家さん、フィレンツェという大きな町では感じなかった「温かさ」がこの田舎町にはありました。
仕立ての専門学校に通う事はもう無いにしても、間違いなく必ずもう一度訪れたい町の一つです

2012年8月9日 倉田文裕

Firenze 「フィレンツェにて」

僕のイタリア留学は日本人にも人気のある都市「フィレンツェ」から始まりました。
あの映画「冷静と情熱のあいだ」の舞台となった都市としても有名です。
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(成田からソウルを経由してローマに降り立ち、ローマで一泊した後、フィレンツェへとやってきました)

僕の1年の留学期間のうち、最初の3ヵ月はフィレンツェで過ごしました。
留学の一番の目的である「服の仕立て」を学ぶ為の専門学校が始まるまで、まだ3ヵ月あったので、イタリアでも語学学校に通う事にしました。
住まいはフィレンツェの住宅街に暮らすイタリア人男性の部屋の一室を借りるかたちで、毎日、その部屋から中心部にある学校まで通っていました。
授業が終わってからの時間は、学校の施設を利用してインターネットをしたり、同じ学校に通う色んな国の友達とご飯を食べたり、近くの公園までジョギングしに行ったりして過ごしていました。
その公園では休日になると市が開かれ、食料品だけでなく、衣類や家具、陶器など様々なジャンルの物が売られていて、市が開かれる休日になると、いつも以上に大勢の人で公園が賑わっていました。
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  (いつもは何もない道の両側に店が並び、市が開かれる休日には、公園がいつも以上の賑わいを見せます)

ここでイタリア人と日焼けについての余談を1つ。
これはイタリア人だけに限ったことではないのかもしれませんが、夏のバカンスを終えた後のイタリア人はよく真っ黒に日焼けをしています。
それはイタリア人の中で、日焼け具合がバカンス中の充実度をはかるバロメーターとされているからで、肌が白いままだと「あれっ?バカンスはどこにも行っていないの?」と言われるそうです。
フィレンツェの観光名所のひとつ、「ポンテ・ヴェッキオ(ヴェッキオ橋)」が架かるアルノ川の堤防ではバカンスの時期になるとレジャーシートを敷いて、せっせと日焼けに励むイタリア人の姿があります。
僕もそれに交じってイタリア人の横で寝っ転がり、イタリア語の教科書を読みながら日焼けに励んでいました。
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   (手前の水の流れていない乾いているところで、夏になると地元の民がせっせと日焼けに勤しんでいます)

日本人にとってフィレンツェという町は本当に魅力的だと思います。
僕はフィレンツェで3ヵ月を過ごした後、「仕立て」の専門学校に通う為に、ピストイアという田舎町に移りましたが、休日にはフィレンツェに来て、友達と会ったり、買い物をしたりしていました。
東日本大震災が発生した際には、語学学校で知り合ったポーランド人の友達から「大丈夫?」と僕を心配するメールが届きました。
フィレンツェに滞在したのはたった3ヵ月でしたが、良い経験と出会いを僕にもたらしてくれました。

2012年8月6日 倉田文裕

Scuola di lingua 「語学学校」

服飾の専門学校を卒業した後、僕はイタリアに留学する前にイタリア語の専門学校に通っていました。
学校は渋谷にあり、先生は皆イタリア人、そして全日制のコースだったので月曜日から金曜日まで毎日授業がありました。
クラスメートはピアニストの方だったり、オペラ歌手の方だったり、定年退職された方だったり様々で、いずれはイタリアに留学しようと考えている志の高い人たちが集まっていました。
毎日の授業が本当に楽しく、学校に通うのが本当に楽しみでした。
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      (卒業式での出し物の準備中。志の高いクラスメートの皆さんに恵まれ、本当に楽しい1年でした)

服飾の専門学校を卒業して、歳も20歳だったので、一番伸び伸びしていた時期で、金髪にもしていましたし、好きな服装で、楽しい学校生活を送っていました。(※決して悪い事はしておりません)
高校の時はよく授業をサボっていましたが、服飾の専門学校の時も、このイタリア語の専門学校の時も、毎日真面目に学校に通っていました。
休まず真面目に学校に通うなんてことは当然の事なのですが、自分の好きな事であれば、僕のような飽きっぽい人間でも長続きするんだなと思っていました。
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 (卒業式。卒業証書の他に皆勤賞で特別賞をいただきました。因みに隣の男性の先生はボディービルダーです)

1年後、卒業を迎えますが、卒業の時期が同じなら、留学を始める時期も必然的に同じになるので、イタリアに留学してからも、クラスメートとの交流は続き、メールで連絡をとりあって情報交換をしたり、現地で直接会ったりして、再会を喜びあったりしていました。
今は僕自身がイタリアとは無関係な生活をしているので、流石に交流はありませんが、皆優秀な人達だったので、今もイタリアで活躍されている方も多いのではないかと思います。
僕もまたイタリアに行きたいなと思っていますが、チャンスがあったら、また学校に通って、イタリア語を勉強し直したいなとも思っています。
それくらい充実した1年間でした。

2012年8月2日 倉田文裕
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